思惟さまざま

哲学的メモや論考をアップしていきます(by 宇久村宏)

宗教について

 神が超越的で普遍的なものだとしたら、それは無私で公平中立な存在であろう。この一事だけで、多くの宗教のいかがわしさを示すのに十分である。人間であれば、自分を好いてくれる相手を贔屓したり、袖の下で便宜を図ったりもするだろう。徒党を組んで気炎を上げたり、正当性を求めて他派と抗争したりするかもしれない。お布施や信仰心、信者数を拠りどころとする宗教がやっているのは、実にこういうことである。要するにそれは、超越的でも普遍的でもない。

 

 

 占いは、仮に当たるとしたら、カンニング行為と同じだし、逆に当たらないとしたら、ただの詐欺行為である。(むろん遊びや楽しみでやる占いは別である。)だがどちらがより罪深いかといえば、「当たる」占いのほうであろう。中には「霊視」などといって、他人の心を読もうとする人もあるらしい。のぞきや盗聴は立派な犯罪なのに、「霊視」なら許されるというのは、一体どうしてだろう。

 合格や商売繁盛、恋愛成就の祈願などというのも、よくよく考えればひどい話である。合格者が一人増えれば、そのぶん不合格者も増える。ある店が儲かれば、別の店が損をする。成就した恋愛が相手を不幸にしないなどと、いったい誰が保証できよう。

 この世にはさまざまな「抜け道」がある。それを利用するには、相応の知恵や労力、リスクを冒す覚悟などが必要である。占いや祈祷も、遊びならいざ知らず、仮にも本気でやるならば、ある種の「抜け道」を目指す行為である。にもかかわらず、それを使う人たちに罪の意識が皆無なのは、一体なぜなのか。

 

 

 もしも本物の宗教があるとしたら、その「神」は、自分への信仰とは無関係に全ての人を平等に扱うだろう。お金を受け取って便宜を図ったり、祈りと交換条件で救済したりはしないだろう。教義や信仰ではなく、ひたすら人間として「正しく」生きることだけを求めるであろう。だが教義や信仰が問題にならないとしたら、そもそもその宗教の「信者」になることに、一体何の意味があるだろうか。

思考のメモ(2024/1018)

 美や芸術は皮相なものだといわれる。しかし「人間」ほど皮相でも偽りでもない。街を歩く人たちの顔を、虚心坦懐に観察するがよい。虚飾の浮かんでいない顔などほとんどない。むろんこの「虚飾」は意識的なものではなく、半ば無意識の仮面、いわば素面と化した仮面である。

 

 

思考のメモ(2024/0914)

 「良心とは社会の道徳が内面化されたものである。良心はしばしば、個人の心にひそむ〈内なる神〉といわれるが、実はその起源は、社会的な形成物にすぎない。いっぽう動物的欲望は、心の一次的な所与であり、その本来的な構成要素でさえある。したがって人間が、おのれの本来性に立ち返るためには、道徳や良心に振り回されることなく、欲望に忠実に生きねばならない。」
 以上は現代の典型的なドクサの一つである。

思考のメモ(2024/0909)

(前回9月3日の続き)

 これに対して「善」の方は、いっそう見極めがたい。善にもエゴイズムがまざることはある。するとそこに、本源的な能動性とのずれが生じる。その一方でこの「エゴイズムとしての善」は、それ自体としては「悪」と対立している。してみれば自然の能動性は、善と方向を同じくしつつ、しかもそれとは別のものということになるだろう。いわばそれは「善悪の彼岸」にある善である。

 ニーチェのいわゆる「権力への意志」は、自然の本源的な能動性とは異なる。それはあくまでも二次的な能動性に過ぎない。

思考のメモ(2024/0903)

  心的なものと物的なものを貫いて遍在する微細な能動性。おそらくこの能動性の中心化したものが、自我と呼ばれるものの本質である。自我の活動が自然の能動性と方向を同じくするとき、そこには生き生きとした快活な感情があるばかりだ。しかし自我はその構造上、求心的なものであって、外界と関わる時にはしばしば対立的となる。自然の能動性と自我の能動性がずれたところに「悪」の萌芽がある。このずれは、初めはほとんど見分けがつかぬほど小さいが、結局はあらゆる悪と同種的なものである。

思考のメモ(2024/07/22)

 カントの「何か持続的なもの」(etwas Beharrliches)についての考察。カントによれば私たちの時間意識は、外界に存在する持続的なものを通してはじめて可能となるという。だが仮に私が、変化転変する色と光の多様しか感覚しなかったとしても、私は時間意識を失いはしないだろう。なぜならば私は、身体の内的存在感覚において、時間の基体たる「持続的なもの」を知っているからである。しかしこの感覚まで失われてしまえば、もはや時間意識は成立せず、自我の時間的持続も、いや自我そのものも瓦解するであろう。

 自我の同一性の崩壊、身体感覚の変容、そして外界の実在性の喪失。この三つはしばしば同時にあらわれるが、それは身体の内的感覚(内から覚知された物体性)が、自我と外界を媒介する役割を担っているからである。カントが『純粋理性批判』で述べている、統覚自我と超越論的客観Xとの相関関係は、身体を介した自我と外界の関係にほかならない。