思惟さまざま

宇久村宏(哲学・藤枝市在住・山村浩=本名)の思考の記録帳です

思考のメモ(2024/05/16)

 意志的な人が必ずしも能動的なわけではない。たとえば「運命」に対してきわめて受動的な観念を持つ人が、その観念の正しさを証明しようとして、ひたすら意志的になったりもする。

 すぐれた本を読むことは、現実という「夢」から目覚める一手段である。

 人間の心には独特の慣性力があって、自分を変えようと思ってもすぐに狭い自分、小さな自分へ戻ってしまう。ではなぜそんなことが起こるかというと、人間の自我はたえず無意識に自己評価をしているからである。より正確にいうと、無意識に自己評価することこそ自我の活動の本質であって、歩き方や話し方を意識して変えるのが困難なように、自己と世界への狭量な見方を、なかなか変えられないのである。

 

 

思考のメモ(2024/05/13)

 「もの」ではなく「こと」を、 実体ではなく関係を、差異の戯れを重視する思考様式は、現代文明における人間の無力感の無意識的あらわれかもしれない。現代の複雑な社会機構において個人はアトム化し、一人の人間は別の人間と代替可能な部品に過ぎず、社会の関係力学の匿名的な担い手に過ぎない。チェスの駒が「それ自体として」価値を持つことはない。一つの駒は別の駒との関係性においてはじめて意味をもつ。それと同じように、現代社会では人間が「自体的価値」を持つのは稀である。

思考のメモ(2024/05/09)

 昔の有閑階級は、暇をもてあまして精神を病む人も多かった。心を病んだ暇人がスイスの療養所へ大挙してやってくるさまを、ヒルティが記している。ショーペンハウアーも、無為がもたらす耐えがたい倦怠感に言及している。ところが今は、金さえあれば暇をつぶせる手段が山ほどある。現代日本で金銭が法外に貴ばれる理由の一つは、こんなところにあるのかもしれない。

 

 

思考のメモ(2024/05/07)

 「すべての新しい対象は、それをよく観察するならば、私たちの内に新たな感覚を開いてくれる」(ゲーテ)。しかし単なる情報は、私たちの内に何ら新しいものを開きはしないだろう。

思考のメモ(2024/05/05)

 私たちが生きている時代のさまざまなドクサは、そのつど体験されるものと常識的な思考方法のズレというかたちで示される。体験の中へ虚心坦懐に没入すればするほど、常識的な思考のあらが前景化してくる。

 

 心が身体(脳)に閉じ込められているというのは、現代の典型的なドクサである。心的なものは、実際には身体の境界を超えて外界へにじみ出ている。それとなく感じつつも、明瞭には名付けられずにいるこの事実を、私たちは「雰囲気」とか「オーラ」などと呼んでいる。人間どうしの交感作用の根本は、おそらくここにあるのだろう。私たちが他人の心に影響を与えるのは、言葉や身振り、表情によってだけではない。しかし同じ理由から、人間は環境から多大な影響を受けている。

 

思考のメモ(2024/05/03)

 主観と客観の対立関係の解消は、主観の個別性が瓦解し、客観と神秘的に融合することで実現されるだけではない。主観そのものに含まれる他者性の形式を、外的対象に拡張することによっても、主客の対立は解消されうる。だがこれは、芸術体験においては常凡の出来事であろう。

 

 感情は主観の状態であるとともにその他者である。「私は悲しい」と言うこともできるし、「私は悲しみを抱いている」とも言える。それではたとえば「モーツァルトの音楽が悲しい」とは、いかなる事態をさしているのだろうか。この場合「悲しみ」は、私の個人的感想のたぐいではない。それは楽曲に内在する客観的な何かである。しかし私は、それを私自身の悲しみであるかのように体験している。

 

 身体の内的存在感覚においては、主観と客観が未分化なだけでなく、自由と因果性もまた未分化な状態にある。